軽々と訪れる死、その命の「軽くなさ」。

先日、それまで健康万端、元気横溢にはずんでいたいのちが
瞬時に失われてしまう事故現場に居合わせた。

悲しいとかより先に、
あまりの、その訪れの簡単さ、軽さに、
しかし、いなくなってしまったものの存在感との不釣合いさに
呆然としていた。
こんな、重大なものが、あっけなくゼロになってしまうのか、と。

なんだか派生して、
たぶん、空襲を受けたときに生き残った側の人は
こんな感覚なのだろうと思った。
私の居合わせた場所は戦場めいた場所ではなかったけれど、
明るい日差しと楽しい時間の中、という場に訪れた突然の惨事に、
夏の日差しの中で鉄の雨に打たれて……という「さとうきび畑」とか、
夏の真昼に爆撃を受けた、「夏の葬列」のヒロ子さんのこととかを
連想をしたのだと思う。

そんなことを考えていて、さらに連想したのは
漫画「夕凪の街 桜の国」。

生き残ること、死ぬほうに選ばれなかったこと、
そこに、意味を考えはじめている。

積極的に「死なないようにしよう」という努力をしていなかったくせに、
訳もなく大丈夫だったということへの、薄く淡い罪悪感。
その薄さ淡さゆえの、居心地の悪さ。

ごめんなさいでも、ありがたいでもない、
なんともいえない不定形な気持ちが、
「ここに意味を見出さなければ」という方向に
心を動かしている。

ひとの感情というものは、不思議だなと思うことです。
emix | 思うこと | 17:44 | comments(0) | - | - | - |

「ちゃんと」、争う。

争いや言い争いは、ないほうがいい。
だけど、自分の主張を表現することはやめられない。
目的は何なのか、それが必要、不要を分けるラインだ。

ふむふむ思った記事。
http://diamond.jp/articles/-/73861

批判(文句)も同様で、
何の目的の批判なのか、ということを
考えてみないとな、と思う。

少なくとも、
「私はあの人より、ましだ」
という感情に基づく批判、文句はやめよう。
浮かんだとしても、表に出さず、
穴を掘って埋めておこう、と思う。

これは差別(選民思想)とつながる行動だという気もする。
だから、特に、注意深く。

自分の「怒り」をちゃんと見つめて、
ちゃんとした怒り、ちゃんとした争いは避けずに、
戦うべきときだけはちゃんと戦おう、と思った。

その「見極め」が、
怠惰でもなく、妥協でもなく、いわゆる平和ボケでもなく、
本当の、積極的平和につながるはずだ、と信じて。

emix | 思うこと | 05:43 | comments(0) | - | - | - |

便利と傲慢と

「便利さ」というのは、
「当たり前」「普通」と扱った時点で
「傲慢さ」に化けるのだ、とあらためて思った。

便利は、すてき。
すてきだからこそ、
傲慢なものにしてはいけないし
そうしないための努力を
自問しつつ、想像しつつ、
続けないといけないのだと思う。

正義とか、平和とかも、これに
似ているかもしれない。

正義も、平和も、すてき。
だからこそ、視野狭窄にならないようにしなければ。

「みんな違って、みんないい」、
「万能薬なんて、ない」。

臆病な謙虚さではなく、
「ひとりひとりのひとは、
ひとりでは全く、至らない存在なのだ」と
言い切る強さを持って。


emix | 思うこと | 19:21 | comments(0) | - | - | - |

姿勢。

姿勢と心がけは、連動する。
屈まず、反らず、背筋をまっすぐ伸ばして。

そんな姿勢から生まれるものは、
言葉も、思いも、まことを纏う。

練られていなくても、荒削りでも、
まことさえあれば。


それは、「正直だったらいい」という
安易な思考停止の開き直りとは全く、別物だ。

背筋を伸ばした姿は、
なにはともあれ、美しい。

そういえば、姿勢の悪い動物って、いない。
一生懸命で必死のものには、
姿勢が悪くなる「隙」はないのだ。

目覚めているあいだは、
ニンゲンの持てる、
自分の持てる、いい姿勢でいよう。

そうすれば、見落としていたもの、
見逃していたもの、忘れていたもの、
失っていたものが、見えてくる。

たぶん。


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※最後のひとことでだいなしにする
「たぶん」シリーズです。
「逆もあるし、違う見方もあるよ」という幅を
持たせる寛容で便利なことば、「たぶん」が私は大好きです。

たぶん。
emix | 思うこと | 15:29 | comments(0) | - | - | - |

声が聞こえる。

仕事と向き合うとき、
どうしようと頭をひねるとき、
頭の中で、扱う素材の声が聞こえる。
そして、先達の声が聞こえる。

素材の声は、
「こう作ってほしい」
「こう作られるのは、いやだ」
などなど。

先達の声は、
「それはまずいよ」
「もっといい方法があるだろう?」
「……ふーん」
などなど。

先達は、なかなか
「いいね」とは、言ってくれない。

これは、どんな仕事でも、そうなんだな、と思った。

堂宮大工の人がお寺の修繕をしているときに
作り手の声を聞く、と言った。
木造建築の大工の人が墨付けをしているときに
木の声を聞く、と言った。
マタギである人が山の中で獲物を追っているとき
長老の指示の声を聞く、と言った。

そして私はいま、
デザインを試行錯誤しつつ作っていて、
先輩の声を聞いていた。

ほんと、なかなか
「いいね」とオッケーを出してくれない。

ただ、声を聞けるということは、
同じ道を行っているということだけは、
確かなのだと思う。
まだ辿り着けていないけれども、
まちがってはいない道を進み、
先を行く先輩の後、影、痕跡を
追っているということ。

だから、声が聞こえた、
声を聞けるところにきた、ということは、
この先が開けるという「前兆」だ。

先達の声、素材の声は、
無視することもできる。
でも、無視しなければ、
さらなる高みに導いてもらえる。

どちらがいいか、なんて、
言うまでもないことだ。

たぶん、「アルケミスト」の
「前兆は語る」は、
これと同じことを言っているのだろうと思う。

前兆とともにある、豊かな生を選ぼう。

emix | 思うこと | 17:29 | comments(0) | - | - | - |

人生とは

ひとつひとつが「時間切れ」の連続で、
最後にぜんたいの「時間切れ」が訪れることだ。

……なんてことを思う、
「時間切れでいろいろと切り上げる」日々。

完成するのかなあライフワークって。
emix | 思うこと | 05:58 | comments(0) | - | - | - |

やってみないとわからない。

「やってみないとわからない」なあ、と本当に思う。
もっと厳密に言えば、
「頭で理解していても意味はなく、体験を通してはじめて
心身ともに納得するかどうかがわかる」という感じ。

今まで、どちらかといえば苦手だったり、敬遠してたり、
やや嫌悪すらしていたかもしれないような気もするものに対して
「好意」が目覚めつつあり、自分に驚いているところ。
「いや」と目を覆いつつ、
でも指の隙間からおそるおそる様子をうかがうような対象は、
本当は「すごく気になるファクター」を内包しているのだなあ。
で、体験を通して「すごく気になるそれの正体」が一体何だったのかを知る、
そしてそれが「いや」という一部の印象以上のものだったと知るという感じ。

おとなになってから、今まで構築してきた(または、構築してしまった)
ひとつひとつの「知識による頭でっかち」を
ぺたぺたと均しながら生きているような気がする。
駆け足の「学び」にはホントに穴が多いよ、と
学生たちに伝えたいような気もしますが、
でもそれも「やってみないとわからない」ことだから、
自分自身の体験を通過するまで耳に届かないのだろうな。
私もたぶん学生だったら「ふーん」って返事して、
実感の時を迎えるまで忘れたままになってると思うし。


emix | 思うこと | 02:41 | comments(1) | - | - | - |

不便というステップ。

昔の日本では、八百万のかみさまが
自然の至るところにもいるし、
おうちのなかの至るところにもいると信じられていた。
(今も、信じられていると思っていますが)

トイレにも、竈にも、囲炉裏にも、什器にも。

どうしてそうなったのかな、と考えたら、
その場所や道具たちは、生活を支えてくれるからだ。
なくてはならないものだからだ。

だから、「ありがたい」(ないとたいへん困難になる、あってくれて助かっている)
というものになる。

「あるのがあたりまえ」なのではなくて、
「あってありがたい」ものということ。

日用品とはいえ、壊れなければ人間よりも寿命の長いものたち。
壊れたからといって、ひょいと買ってきて
すげ替えることはできなかっただろうし、
そもそも、そういう買い方をするものではなかったのだと思う。

設備や道具は、人間の支配下にあるものではなく、
それらの力を借りている、という意識のものだった。

今でも、年末に会社では
道具たちに注連縄をつけたりしますね。
(私のいた会社だけかしら?)
あの習慣はぜひ残って欲しいものと思います。


………………

多忙にかまけて、沸かしたお風呂を冷ましてしまって
追い炊きボタンひとつで沸かし直したときに、
ああ、私は火もお湯もお風呂もないがしろにしてしまった、
冷ますこと、沸かし直すこと、ともに
薪で炊いていたころは絶対にあり得ない/許されないことを
平気でやってしまっている、と思ったのでした。

意識の問題なのですが、その意識は
「不便や困難というステップがあって、身に付く」
なんだと思います。

不便や困難というステップがあるからこそ、
感謝や敬意が自然に発生する。
後付けで行われる「感謝しなければ」という教えは、
身に付かないものだと思います。

世間では、「MOTTAINAI」が一人歩きしている感もあります。
もののない不便さ、困難、そういうものを経由して、
あの考え方が「説得力のある理念」となるはずです。

その意識が生まれなかった国に、その考え方だけを持ち込んで
果たして、根付くのかという気もします。

MOTTAINAI の言葉と最も親和しているもののひとつは、
たぶん、江戸庶民文化のように思うのですが、
たとえば、江戸庶民の暮らしのなかで、一枚の布が
服からはじまって最後は焚きつけになるまでの十何ステップもの経過を、
あのことばとともに、伝えられたらいいのになと思います。


まずは、私が、お湯を冷まさないことからはじめなければ、なのですが。
私は「見なし」が苦手で、目の前に「そのもの」がないとうまくできないので
私はもっと、生活に「不便を取り戻したい」と思います。
万物に分散する八百万の神、そして
人の暮らしの中で生まれ育っていく憑喪神たちと、暮らす生活を。

emix | 思うこと | 06:49 | comments(0) | - | - | - |

「あえて、極めないことを選ぶ」ということ。

一番効率的で、一番効果が高い方法が、必ずしも最良の手段ではない。
ということは、つねづね思っていたことだけれど、
ひとつまた、自分的にはすごく核に近い部分=食文化のなかで
深く思うことがあったので、書き留めておきます。

おいしい肉を食べるために、
いちばん肉質をよくする方法というのが
野生鳥獣にあっても、肥育環境下にある
いわゆる経済動物たちにあってもいくつかあるのだけど、
それらの方法のうち、
「確かに、いい肉質という結果になる。けれど……」と
気になっているものがあった。

職人たちの磨いてきた技術は素晴らしい。
重ねてきた不断の努力、試行錯誤には敬意を感じる。

そのうえで、私は、
「多少肉質が良くなくなっても、
堅持したい手段、工夫したくない範囲」
があるのだと気付いた。

むしろ、私は、そうした肉を、
その状態から工夫して活かした
食べ方、つかいかたを、考えたい。

いい肉をつくるために心を砕く、真摯な職人のかたがたを
批判する意志で書いていることではないので、
あえて具体的な例をあげずに、曖昧な書き方にとどめます。

素晴らしいと思う。努力と発見と技術に尊敬もしている。
だけどごめんなさい、私はそちらを選ばない。
というだけの話です。

この感じに似ているのは、宗派の違うかたへの思い。
クリスチャンのひとを尊敬するけど、私は同じ行いはしない。
仏教者のひとを素晴らしいと思うけれど、私は別の手段を選ぶ。

つまり、なんだかんだで、私にも核とする宗教観的なものが
心の奥に、しまわれていたようです。

そして、死後の世界があるかどうかはさておき、
「死んだらいのちはそこで終わり」ではないと、
而立から不惑に向かう年月を経て、ようよう実感してきました。

(また、「命が失われたあとのこと」に対して
自分なりに納得のいく答えと信念が決まっていないと、
「命が失われた現場」への対応がちゃんとできないのだと理解しました)

こんな転機がいつかくるとは
全く想像していなかったなあ、なのですが。
宗教は、自分にはむしろ本能に逆らうものだと思ってた。
でも、人間の生んだものは、それもまた自然の一部であって。


本当、人生ってば、当たり前のことを学び直すことばかり。
最終的には、「発見したなあ」じゃなくて、
「やっぱりそうだったんだなあ」という感慨が、
いつか訪れる終の日の、まとめになりそうです。

血のつながりのある先祖たちも、
血ではなく意識の根幹を同じくする先祖たちも、
そういう思いを積み重ねてきて、今に至り、
私に影響を与えてくれているのだと思うと、なんだか感慨深いです。
人間、縦にも横にも繋がって「人類」というひとかたまり、
そしてそれが縦横に走る交差点に結ばれる
「私」という一個人を、構成しているという実感。


「あなたを尊重する。でも、私はあなたと同じことを選ばない」
そういう「ひとを尊重する」かつ「ひとと同調しない」人々が、
それでもひとつの「人々」という集団を形成しているのが、
正しい群れのかたち、変化に対応して全滅しない群れのかたち、
未来を紡ぐことのできる群れのかたちなのだろうと思います。

最近のご時世から、意識はやっぱりこっちのことに
つながってくるこの頃。

NOと言えない日本人、もとい、NOと言いたくない日本人から
「敬意を添えて、上手にNOと伝えられる日本人」に
なっていければいいなと思います。自分。

emix | 思うこと | 05:33 | comments(0) | - | - | - |

自己紹介は、世界を救う。平和の礎。

とある、狩猟してる女子さんのブログのコメント欄が、荒れている。
まあ、狩猟が身近でない人には刺激的すぎる写真が多いので
脊椎で拒絶反応が起こっちゃう人はいるのだろうな、と思いつつ、
荒れている理由の一つには、この主体のひとが
「日本人」かつ「女性」、そして「若い人」であることが大きいように思った。

もしこれが仮に「いかにもマタギ然としたおっちゃん」だったらどうか。
または「イヌイットの少女」「モンゴル人のお母さん」だったらどうか。
たぶん、多少の「イヤだ、見せないで!」の反応はあるかもしれないけれど、
荒れるというほどの状況にはおそらく、ならないだろう。

話は変わるけれど、日本人が外国に行くときに
所属する宗教を聞かれて「特にない」「無宗教」と答え、
おそれられる、というはなしがある。
予備知識に照らし合わせることができず、「得体が知れない」からだ。

何がタブーで、何に敬意を払うのかわからない。
宗教は、ひとつの規範でもある。
何を規範とするか理解できない相手。

一般的に、宗教に縁遠い私たちには理解しにくいことだけれど、
「行動の読めない最近の若者」への恐怖感に似ている気がする。
たとえば、

・年長者、お年寄りに敬意を払わない
・礼儀作法がなっていない
・残酷なことへの歯止めがない
・挨拶や習慣など、今までの「普通」のコミュニケーションがとれない
・あり得ない状況で、「キレる」

など。

これは、「普通のひとなら、こうするはず」という規範が
崩されている、見えない、そういうことから出てくる状況。
ニュースで伝えられる、若者たちの犯罪にぞっとした経験のある人も
多いだろう。

どうしてそうするのか分からない。
何を考えてその行為に走るのか、理解できない。
いやだ。怖い。気持ち悪い。

という、おそれに繋がる。


これと同じことが、
「無宗教です」と答える日本人に
外国人たちがおそれる状況にあるのではないかと思う。


話を戻して、
「日本人」「女子」の行う狩猟。

イヌイットやモンゴル人であれば、
「狩猟民族」という予備知識を通して見ることができる。
マタギ然としたおっちゃんであれば、
「いかにも狩猟するよな」というイメージ通りの安定感がある。

だから、彼らの自己紹介がなくとも、その予備知識やイメージで
「食べるために獲る」「生業として獲る、獲るべくして獲る」と理解することができる。
言い換えれば「正しい先入観」で理解する。不安定はない。


ということで、ひっくり返していって当てはめれば結論になるので
あえて書き出さないのですが、その逆がこの状況なのだな、と思ったのでした。

以前、半農半Xの塩見先生のお話を聞きに行ったときに
「自己紹介は大事です。自己紹介をし合うと、理解し合えたり、共通のものが見つかったりする。
仲間も見つかる。楽しくなる。大げさでなく、僕は自己紹介は世界を救うと思ってます」とおっしゃってみえて、
すごく納得して腑に落ちて「この話、好き!」」と思っていたのですが、
それがここに至って、つながってきました。


自分が何者か、という自己紹介、大事。
不本意な先入観で判断される前に、アグレッシブに
自己紹介していく生き方を、したいものです。

宗教を定めるのも、その一つだなと思う、この頃です。
ようやくといった感もありますが、安易に定められるものではなかったので、やはり。

死生観が確立しないまま命のやりとりはできないはずだったという
本来とてもとても当たり前のことを、
命のやりとりの現場や、命が離れたからだのことを思う数々の機会で
思考実験の試行錯誤を繰り返して、ようやく腑に落ちて理解したところです。


今、あらためて一番見たいのは、イヨマンテ。
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