感情は消せない。

タイトルどおり。
「感情は、消せないな」と思った。
怒り、悲しみ、その他なんだかんだ、
ときおり激しい感情に心が占有される。
そんなとき、「怒っちゃダメだ」「泣いてちゃダメだ」と思って
その感情を、抑える。
……でも、「その感情を抑える」ことは、
「感情をなかったことにする」ことには
絶対まったく、ならないのだ。
感情に於ける質量保存の法則、と思っている。

飛躍して、「式神」のことを思う。
術者が第三者に向けて式神を攻撃手としてさしむける。
成功すれば相手を倒すなり何なり、できる。
でも失敗したとき、式神は術者のところに帰ってきて
術者を攻撃することになる。
人を呪わば穴二つ、というか
それだけの覚悟がないと式神を使うことは
難しいのだ、とかそんな話だと思っている。

で、「感情」。
感情も、この式神と一緒で、
「その力のやり場を失ったとき、
消えるのではなく、ほかに代替するのだ」
と思う。

怒ったとき、その怒りを押し込める。
でも、怒りの力はなくなることがない。
それは別の形になって何かに向かい、
「代わりの何か」を傷つける。
誰かに対する八つ当たりだったり、
物に対する破壊衝動だったり、
自分に対する自傷だったり。

悲しみだって一緒だ。
「怒り」よりわかりやすい形ではあらわれないけれど、
押し込められた悲しみは、他の何かに別の形で代替する。
大掃除をはじめる、とか、仕事に熱中する、とか、
そういう「代替」に、そういえば覚えはある。

代替することが、よくない、とはいわない。
そのほうがいいことも、あるだろう。
敵討ちみたいなことで代替してしまうのは、
みんながみんな、辛すぎる。
誰にも彼にも、不幸を招く。

大事なのは、自覚だ。
「私はこの怒りを、これに代替している」
「私はこの悲しみを、これで代替している」
そう自覚的に行えば、激しい感情は代替によって
昇華し、消え去ることができる。
ちゃんと整理し、コントロールすることができる。

それらが構造的につくられてきたものが、
「お葬式という儀式と様式」であったり
「裁判」とかであったりするのだろうと、思う。

どうしようもないものは「代替」によって
昇華するしかないけれど、
人に不幸の連鎖を生まないものであれば、「代替」などしないで
シンプルに「そのまま消化」するのがいちばん。

いちばん根源的で個人的なものが、
「泣きたいときは、泣く」
「怒りたいときは、ちゃんと伝える」
という行動なのだろうと思う。

消化も昇華もしきれないものを蓄積していくと、
ちいさな式神たちが巨大なばけものになって
自分を食い尽くしたり、人を凶暴に害したりするのではないか。

それが自殺であったり、無差別殺戮であったり。


……世界平和のためにできる
「ひとりひとりの小さなこと」とは、
自分の感情を素直に受け止める、という
とてもシンプルなことの継続なのだろう。きっと。

「怒りや悲しみは水溶性」というようなことを
とある女優さんが言っていたので、
ひとしきりめそめそしたあとは
お風呂で水に溶かしてくることにします。

睡眠とお風呂こそは、日にち薬の正体だと思うところ。
睡眠だけじゃ何か足りないのだよね。


emix | 表現 | 09:45 | comments(0) | - | - | - |

石牟礼道子さん追悼。

作家の石牟礼道子さんの逝去を受け、
昨日の新聞、天声人語で紹介されていた内容を
忘れたくなかったので、覚え書き。
 
石牟礼さんが水俣病患者の方たちと運動していた頃に詠んだ句
「祈るべき 天とおもえど 天の病む」

敬意があるからこそ、失わないからこそ、
深くただよう、悲しみと憤り。

もう一つ、石牟礼さんが水俣の人たちから学んだ哲学
「迫害や差別をされても恨み返すな。のさりち思えぞ」

のさりとは、天から賜ったもの、の意味。豊漁がのさりなら、
病苦もまたのさりであり、「のさりち思えぞ」」とは
「たまものだと思え」ということ。


……なんだか、本読みとしては、十二国記のことを思い出しました。

天はある。天は人を救うこともある。
でも、天が病んでいることも確かに、あるのではないか、と。
泰麒を助けてくれない天への、李斎の深い嘆き。
でも、当の泰麒は「自力でできる範囲のことを尽くすのみ、
そうでないものを果たして民は信頼してくれるだろうか」と
いうようなことを言い、天への恨み言を言う李斎を窘める。

この作品の中でも、結論の出ていないことだけれども、
結局、それでも明日は来る、進むしかない、良くも悪くも……
ということしかないのかな、と思います。
(そして「天意」と「人びとの心」は案外、
同一の根に連なるもののように思います)

死んだ歴史の残したものは
輝く今日と また来る明日
他には何も 残っていない
他には何も 残っていない

この歌も思い出したり。

もう一つ、石牟礼さんのことばの記録。

「患者さんは病状が悪いのは魚の供養が足りないからと考える。
岩や洞窟を拝んだりする」
「それを都会から来た知識人は無知で頑迷だと言う。
私はそうは思わない。患者さんたちは知識を超えた
野生の英知を身につけています」

本当に、そう思います。
無知の知、ということばがあらわすように、
自分に知識がある、ととらわれることは、
自分のまだ知らない知識に対して愚かになるということであり。
emix | 表現 | 05:59 | comments(0) | - | - | - |

文章で表現するということ。

文章で表現するということを選ぶのは、
「書くのが得意だから」じゃない。
「かたちになっていないものを、かたちにしたい」からだ。
それは、文章に限らず、すべての「表現」に対して、思う。

もうひとつ、
「表現の技術」を支えるものとは、
知識の総量ではなく、
その知識をどう使うか、という
「工夫という知恵」「判断という思いやり」
なのだと思う。

そのうえで、
文章を書くということの下積みにあるものは、
・語彙を多く知っている
・慣用表現を多く知っている
・文章の構成パターンが多く頭に入っている

ではない。
いや、それももちろん必要なんだけど、
優先順位は、ほんとうはだいぶ低いと思っている。

だって、そもそも
「人に伝えよう」というときには、
伝えるためのドアを開けて、
声を聞いてもらわなければいけない。
上記に挙げたものは「ドアを開けてからの話」。
まずは、ドアを開けないと始まらない。

で、ではドアをあけるために何が必要なのか、と
考えたとき、
そこからは、「文章を書く」という表現スタイルはまず消えて、
ただただ、「人間関係」「コミュニケーション」から始まる。

失礼でない問いかけ。
いやな気持ちにさせない気配り。
あなたと通じたいのだという好意。
伝えたい、という正直なこころ。

それらがあってこそ、
語彙や表現を多く知る「知識」が
相手に受け入れられる素地ができるのだと思う。

だから、書くとき、そういうことに気をつける。
気をつけると、自然、表現に悩む。書き方を練る。
結果、ほんとに「結果的に」、いい文が書ける。

だから、「いい文章」って、
自分で作って磨くことでしか
作りようがないのだと思っている。
じぶんらしくないものを書いたって、
相手に受け入れられる訳がないのだから。


「上手に書こう」
「うまいこといってやろう」
「すごいって思わせよう」
「コントロールしてやろう」

そんなのは、テクニックじゃなくて、
下心とか雑念という。

いくら起承転結がきれいでも、
エスプリが利いてても、
秀逸な例えが挙げられていても、
語彙が豊富でも、

下心をもって近づくひとは、きらい。
文は人なり、というのはここだな、と思う。

で、「きらわれたら、どんないいこと・有益なことを言っても、聞いてもらえない」
ものだと思うのです。(自分がそうだから)。

ああ、つまり、
世界はラブが回しているのだな、と思う。

というところで、敬愛するキヨシローさんの
有名なことばを借りて、結びにします。

……愛し合ってるかーい?

emix | 表現 | 05:55 | comments(3) | - | - | - |

「○○か何か、□□するもの」。

ふと。
「○○か何か、□□するもの」という言い方は、便利だなあと思う。
例えば、「シャーペンか何か、書くもの貸して」と言うとき、
とてもわかりやすい。

「何か書くもの貸して」だけだと、
油性マジックとかチョークとか色ペンとか、
「自分の欲しかったものとはほど遠い筆記用具」を
出してもらえてしまうかもしれない。
また、筆記用具ではなく、紙やメモなどの方を
出してもらえてしまうかもしれない。

そこで「ごめん、紙はあるんだ。メモをとりたいから、
シャーペンとか鉛筆とか、あれば借りたい」と
重ねて言わなければいけなくなる。
せっかく出してもらったものも断ることになる。


「書く(ための)もの」という使用用途と、
「シャーペン」という具体例から
筆記用具の方であること、
「メモをとりたい」という目的、
かつ、選べるなら一番望ましい筆記用具は
「シャーペン」である、ということが示されている。

フランクな、はなし言葉のわりに
いっぱい情報がつまってて便利だなあ、と思って。


……うとうとしていたら、ふと頭に浮かんだので、
メモしてみました。

emix | 表現 | 07:14 | comments(0) | - | - | - |

怒りと依存の相関構造。

山田ズーニーさんのお話は、いつも
体に切り込むような、本音がある。

「傷つけないでと言う前にー2 主語をこの手に取り戻す」
http://www.1101.com/essay/2013-04-10.html


この中にある「よく怒る人は、よく依存する人だ」ということばに、
自分の怒りと、人にぶつけられた怒りとを照らし合わせて、
すごく納得した。

気を付けよう。許そう。
そう思いつつ、
解決の「やりかた」を
もう少し考えたい。

この「よく怒る人は、よく依存する人だ」という認識の上で、
「あなたは依存している」「私は依存している」
……と、ストレートに指摘/認識することは、
解決方法として、最善だろうか?

そう考えた時、なんだか痛みを感じる。
これはたぶん、誤認の危険をはらんでいる。


「依存」は、善に属する「何か」の別の形でもあり、
依存を100%の悪だと見て「依存をゼロにしよう」ということは、
はなから無理なことであり、とても不自然で横暴な、
人間の本能と、個々のアイデンティティを否定するようなことなのだ。

煮込み料理のアクが、うまみ成分のひとつの姿でもあり、
クセのあるたべもののクセが、魅力のひとつの姿でもあるように。
人から見ればとるにたらないような存在で
害ばかりがあるようにおもえる生き物を滅ぼしてしまうと、
生物連鎖のピラミッドの均衡を崩してしまうように。
人間の持つ凶暴性が、危機的状況に置かれた場合の生存のために
必要なものであるように。

「依存心」は、多すぎてもよくないけれど、ゼロにできるものでもない。
バランスを吟味してつきあうべき存在だ。


依存心を肯定したうえで、怒りと向き合う。
(もちろん、全肯定という意味ではなく)
そういう意識のうえで選ばれる
解決の「やりかた」は、とても大事だと思う。


たとえば、子どもの怒り。
子どもは、親に依存しなければ生きていけないし、
依存を経験しない子どもは、いい親になれない。
依存を頭ごなしに否定され続けて育った子どもも然り。

たとえば、カミサマでも、心酔する偉人でも、
オットでも、彼でも、とにかく一人の誰かを強く信じているかたの持つ怒り。
依存していると指摘され、その信じる気持ちを否定されて、
つまり傷つけられて、それが、いい結果に結びつくのか?


そもそも、人は何故「怒る」のか。
それは、私は「分かって欲しい」「気付いてほしい」……
言い換えれば「私は、あなたと通じたい」という望みであり、
一種悲痛なこころの「直訴」というコミュニケーションなのだと思う。


怒りではなく、創造という手段で解決をすること、
そしてそのときに「依存によって他者に明け渡していた“主語”を
自分の手に取り戻すこと」。

そのとき、「依存心」を否定するのではなく、
本能や環境、刷り込みの影響下にある「依存心」の存在を認識し、
「怒りたくない」という意思とのバランスをとって
その量を配分することが大事なのだと思う。


怒る人がこころの中に持つ、しんそこの本心は、
「本当は怒りたくない」であると、私は信じたい。


emix | 表現 | 14:09 | comments(0) | - | - | - |

本当と嘘、そして「違和感」のしっぽ。

ちょっと、表現、表明……そういうものについて、思うところをまとめたいので、
こんな感じのことを、つらつらと。


あるものかきの人がいってた。

「表現には、つきつめると、たった一つの違いしかない。
 本当か、嘘か」

本当と嘘。

何を本当とし、何を嘘とするか。
これらの区分け、単純ではないと思う。


前にこの日記で書いたことがあるけれども、

「本当のことを、話したくない」そういう気持ちを持っているときに、
「真実を話せ」と強いられたとする。
そのとき、自分のこころに逆らって、
「真実を話す」ということ。

それは、「本当と嘘」どちらだろうか?

表面的な事実としては、真実を伝えたのだから、
本当を話した、と言えるだろう。
でも、気持ちには、逆らっている。


話したくない、そのこころに逆らって
話してしまった……
私は、この場合は、
そちらの「心の問題」のほうでもって、
「嘘」の側だと、思う。

こちらの「嘘」のほうが、
大きな問題だと思う。


……このへんは、
「考えるな、感じるんだ」的な
ところになってくるので、
説明に文字を費やすのは、あまり意味がないように思う。

そういうケースに、遭遇すること。
自分がそういう立場に立ってみること。
深く深く、想像してみること。

そのような、経験、もしくは
シミュレーション、ロールプレイングのなかに
心を放ち、主観と客観で、観察してみること。

そんな積み重ね、経験から、
自分の心のなかに「理解」として
落っこちてくるたぐいのものであると、思う。


そして、このような
「本当か、嘘か?」を
判断するために、育てるべきもの。

「正しいみたいなんだけど、なんかひっかかる」
そんな、ふと感じた「違和感」をそのままにしないこと。

そこだと思う。


たいがい、自分がかつてしてきた「後悔」には、
「思いがけないもの」は、ほとんどなくて、
「そういえば、なんかひっかかってた」というものが
ほとんどだったりする。

サインは、あったのだ。
違和感のしっぽを、つかみそこねていた結果。
あえて目をそらしていた結果。
関係ないと思いこもうとしていた結果。


違和感のしっぽをつかんで、
たぐり寄せてみることができれば、
「自分をだまそうとする自分」の姿が
見えてきたり、する。

だまそうとする、って言い方をすると
悪意由来のものみたいだけれど、

「みんながこういっているのに倣っとこ」的な日和見ごころだったり、
「建前はカバーしているから、問題ないだろう」という思考ストップだったり、
事なかれ主義だったり、面倒に巻き込まれたくない気持ちだったり、疲れだったり。

悪意とまでは言えない、これらの思い。


無意識の野に放ったままにするか、
意識の側にとらえておくか。

そういうことなのだと、思う。


意識の側にとらえられていれば、
「無意識の悪意」まで育ててしまうことなく、
たしなめることができる、そう思う。

emix | 表現 | 09:23 | comments(0) | - | - | - |

ことばの順序。

テクニックとか、コツとか、
そういうの、じつは好きじゃないのですが、
思いを伝えるために、
ひとつだけ、「順序がだいじ」だなと、強く思うことがあったので、
かきとめておこうと思って、カタカタ。←キーボードを叩くおと。

何かを伝える。
その時に、何らかのかたちで、
「自分がどうしたいと思っているか」ということを
とにかく、一番先に、伝えること。

いわば、その「先入観を、仕込む」ことで、
あとのことばたちが、「そのフィルタを通って、伝わる」。

だと、思った。


対面では、
表情、立ち居振る舞い、話し方、視線、
そういうもので、自然と先に伝わっているもの。

文章では、それがないから、
あえて、自己紹介的に、

「私は、今から話す話において、どういうスタンスか」というのを
述べることが、スムーズに、かつ、勘違いや食い違いなしに
思いを伝えることになれる。

そう思った。


たとえば、
いろんな理由を並べ連ねるような場合。

先に、「私はこうしたい」を出しているかどうかで、
そのあとの「理由の羅列」は、
言い訳ぐだぐだ ととられるか、
状況説明、もしくは問題解決の模索 ととられるか、分かれる。

この差は、大きい、というか、
ベクトルがさかさになるくらい、決定的なことだ。


顔見知りの会話ではおこらなかった齟齬が、
関係の浅い相手や、相手が何を考えているのだろう……という状況ではおこったり、
顔のわからないネット上での紛糾になったり、
そのへんの理由は、ここにあると思う。



すべてが英語的にはっきりしているのがよい、とまでは
日本語を愛するものとして、思わないですが、

ともすれば、あいまいになりがちな日本語の中で、
英文の順序のような、
「私は」「なにをする」的な構造を、
「ひとかたまりの文章」の中には、
持ってみてもいいのかも。

以上、メモでした。

emix | 表現 | 09:45 | comments(0) | - | - | - |

無理と意地っ張り。

糸井重里氏の語録です。

心配すると痩せるのは、
安心を消費してしまうからですね。



--------------

若いときは、自分が無理をして働いているのは、
自分の決意や意思の問題だから、
誰の迷惑にもなっていない、と
思いがちなんですけどね、そんなこたぁないんですよね。

「あいつ、大丈夫かなぁ」と、心配している人がいて、
その人の心のなかにある
「安心」という栄養を消費させているんです。

emix | 表現 | 22:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

優先順位

友人とこに遊びにいったとき、
めっちゃ楽しい楽器があって
しばし、遊ばせていただきました。

で、友人宅を辞して帰ってからも、
仕事中、思い出しては、やー、楽しかった!
と気もそぞろになるので、
「もう、仕事が手に着かないです(笑)」ってメールしたら
「やっぱ、やりたいことから、優先しないとね〜」
って。


「やりたいことから、優先」。
言う人によって、説得力が正反対になる言葉だろうなと思うけど、
音楽家である彼から出てきたその言葉は、説得力ずっしりでした。


決断の先延ばしは、状況によってアリ。
でも、優先順位付けは、先延ばししててはアカン。

自分の今の思索テーマの中で、そんなことを考えたり。

emix | 表現 | 06:13 | comments(2) | - | - | - |

イルカは、かわいい。

イルカは、かわいい。

クジラも、かわいい。

ウシも、かわいい。

ウマも、かわいい。

ヒツジも、かわいい。

モルモットも、かわいい。

チャウチャウも、かわいい。

ニワトリも、かわいい。

マグロも、かわいい。

ワカサギも、かわいい。

スズメも、かわいい。

ホウレンソウも、かわいい。

ハチノコも、かわいい。

コメも、かわいい。

リンゴも、かわいい。

キノコも、かわいい。



いきものは、みんな
いきていることが、かわいいもの。
どの部分をかわいいと感じるかは
人それぞれかもしれないけど、
それは、いきものである人間なら
自然な感情だと思う。


いきものは、みんな
いきものをおいしく思ってしまうもの。
どのいきものをおいしいと感じるかも
人それぞれかもしれないけれど、
それも、いきものである人間なら
自然な本能だと思う。



いちばん怖いのは、
「いきものを食べている」ということを
忘れてしまうこと。

そんな根元的なことを忘れてしまえる
異様な環境にいるのは、人間だけ。

そっちの方に、危機感を持ったほうが
よっぽどいきものとして、健全なのじゃないか。
emix | 表現 | 20:40 | comments(0) | - | - | - |
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