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怒りと依存の相関構造。

山田ズーニーさんのお話は、いつも
体に切り込むような、本音がある。

「傷つけないでと言う前にー2 主語をこの手に取り戻す」
http://www.1101.com/essay/2013-04-10.html


この中にある「よく怒る人は、よく依存する人だ」ということばに、
自分の怒りと、人にぶつけられた怒りとを照らし合わせて、
すごく納得した。

気を付けよう。許そう。
そう思いつつ、
解決の「やりかた」を
もう少し考えたい。

この「よく怒る人は、よく依存する人だ」という認識の上で、
「あなたは依存している」「私は依存している」
……と、ストレートに指摘/認識することは、
解決方法として、最善だろうか?

そう考えた時、なんだか痛みを感じる。
これはたぶん、誤認の危険をはらんでいる。


「依存」は、善に属する「何か」の別の形でもあり、
依存を100%の悪だと見て「依存をゼロにしよう」ということは、
はなから無理なことであり、とても不自然で横暴な、
人間の本能と、個々のアイデンティティを否定するようなことなのだ。

煮込み料理のアクが、うまみ成分のひとつの姿でもあり、
クセのあるたべもののクセが、魅力のひとつの姿でもあるように。
人から見ればとるにたらないような存在で
害ばかりがあるようにおもえる生き物を滅ぼしてしまうと、
生物連鎖のピラミッドの均衡を崩してしまうように。
人間の持つ凶暴性が、危機的状況に置かれた場合の生存のために
必要なものであるように。

「依存心」は、多すぎてもよくないけれど、ゼロにできるものでもない。
バランスを吟味してつきあうべき存在だ。


依存心を肯定したうえで、怒りと向き合う。
(もちろん、全肯定という意味ではなく)
そういう意識のうえで選ばれる
解決の「やりかた」は、とても大事だと思う。


たとえば、子どもの怒り。
子どもは、親に依存しなければ生きていけないし、
依存を経験しない子どもは、いい親になれない。
依存を頭ごなしに否定され続けて育った子どもも然り。

たとえば、カミサマでも、心酔する偉人でも、
オットでも、彼でも、とにかく一人の誰かを強く信じているかたの持つ怒り。
依存していると指摘され、その信じる気持ちを否定されて、
つまり傷つけられて、それが、いい結果に結びつくのか?


そもそも、人は何故「怒る」のか。
それは、私は「分かって欲しい」「気付いてほしい」……
言い換えれば「私は、あなたと通じたい」という望みであり、
一種悲痛なこころの「直訴」というコミュニケーションなのだと思う。


怒りではなく、創造という手段で解決をすること、
そしてそのときに「依存によって他者に明け渡していた“主語”を
自分の手に取り戻すこと」。

そのとき、「依存心」を否定するのではなく、
本能や環境、刷り込みの影響下にある「依存心」の存在を認識し、
「怒りたくない」という意思とのバランスをとって
その量を配分することが大事なのだと思う。


怒る人がこころの中に持つ、しんそこの本心は、
「本当は怒りたくない」であると、私は信じたい。


emix | 表現 | 14:09 | comments(0) | - | - | - |
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