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不便というステップ。

昔の日本では、八百万のかみさまが
自然の至るところにもいるし、
おうちのなかの至るところにもいると信じられていた。
(今も、信じられていると思っていますが)

トイレにも、竈にも、囲炉裏にも、什器にも。

どうしてそうなったのかな、と考えたら、
その場所や道具たちは、生活を支えてくれるからだ。
なくてはならないものだからだ。

だから、「ありがたい」(ないとたいへん困難になる、あってくれて助かっている)
というものになる。

「あるのがあたりまえ」なのではなくて、
「あってありがたい」ものということ。

日用品とはいえ、壊れなければ人間よりも寿命の長いものたち。
壊れたからといって、ひょいと買ってきて
すげ替えることはできなかっただろうし、
そもそも、そういう買い方をするものではなかったのだと思う。

設備や道具は、人間の支配下にあるものではなく、
それらの力を借りている、という意識のものだった。

今でも、年末に会社では
道具たちに注連縄をつけたりしますね。
(私のいた会社だけかしら?)
あの習慣はぜひ残って欲しいものと思います。


………………

多忙にかまけて、沸かしたお風呂を冷ましてしまって
追い炊きボタンひとつで沸かし直したときに、
ああ、私は火もお湯もお風呂もないがしろにしてしまった、
冷ますこと、沸かし直すこと、ともに
薪で炊いていたころは絶対にあり得ない/許されないことを
平気でやってしまっている、と思ったのでした。

意識の問題なのですが、その意識は
「不便や困難というステップがあって、身に付く」
なんだと思います。

不便や困難というステップがあるからこそ、
感謝や敬意が自然に発生する。
後付けで行われる「感謝しなければ」という教えは、
身に付かないものだと思います。

世間では、「MOTTAINAI」が一人歩きしている感もあります。
もののない不便さ、困難、そういうものを経由して、
あの考え方が「説得力のある理念」となるはずです。

その意識が生まれなかった国に、その考え方だけを持ち込んで
果たして、根付くのかという気もします。

MOTTAINAI の言葉と最も親和しているもののひとつは、
たぶん、江戸庶民文化のように思うのですが、
たとえば、江戸庶民の暮らしのなかで、一枚の布が
服からはじまって最後は焚きつけになるまでの十何ステップもの経過を、
あのことばとともに、伝えられたらいいのになと思います。


まずは、私が、お湯を冷まさないことからはじめなければ、なのですが。
私は「見なし」が苦手で、目の前に「そのもの」がないとうまくできないので
私はもっと、生活に「不便を取り戻したい」と思います。
万物に分散する八百万の神、そして
人の暮らしの中で生まれ育っていく憑喪神たちと、暮らす生活を。

emix | 思うこと | 06:49 | comments(0) | - | - | - |
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