1がつ1にち。

素直でないおへそを持ってしまったので、
どこに区切りを持つか、なだけかなあとも思ったりしますが、
「思い立ったが吉日」のひとつということで、
1月1日というひとくぎりの日を、
有効に使ったり願ったり大事にしたりしようと思います。
(昨日のはなし)

昨日が、みんなそれぞれにとって
よい節目になりますように。
emix | 雑記 | 20:31 | comments(0) | - | - | - |

おかねを、蔑まないで。

差別はいけません。
人を見下したりするのは恥ずかしいことです。

…と道徳は教えるんだけど、ほんとうにこれはちゃんと
実践できているのかなぁと思う。自分もひとも。

あえて雑な表現をすれば、
障害のあるひと、病気や怪我をしたひと、
恵まれない環境にあったり不幸にまきこまれているひとを
思いやり、気にかけ、やさしくすることは、簡単(単純)なこと。

案外、それができて、
そちらがわの味方になろうとがんばったり
意識しているひとの多くに、
「差別」「見下し意識」があるのかもしれないと思う。

その「差別」や「見下し意識」の対象はもちろん
「そちらがわ」のひとではなくて、その対岸にいる、
「お金もうけをするひと」や「損得勘定の計算高いひと」、
また、「権力におもねるひと」。

そういうひとたちを、
「心が貧しいよね」「かわいそうな人」なんて、
憐れんだり蔑んだりしてないか。

憐れみ、蔑み。それは、
まさに高みから下に向かって投げることば。
明らかな「見下し」だ。

……

何が言いたいかというと、
自分の経験不足や想像力不足を
既存の「正義」によりかかって正当化したり、
既存の「善の基準」にあぐらをかいて
盲目的になっていないか。

そして、自分が「正義や善の側にいる」と
安心してしまっていないか。
そんなことです。


たとえば、誰にでも激しく吠え、咬みつくような
とても乱暴な犬がいるとする。
その犬の攻撃から小さな犬、弱った犬を守るため、
その犬に立ち向かい、棒で殴って追い払うとき、
自分の行為は勇敢で、弱者を庇護するポジティブなものだと
胸を張り、自信を持ってしまっていないか。

その犬が乱暴になった経緯には、
ひどい虐待や、恐ろしい体験があったかもしれないのに。
(「弱い犬ほどよく吠える」というように、実際、多い話です)

たとえば、政治家や大企業の経営者たちに対して
先に書いたような見下した意識を持ちながら、
平気な顔、得意な顔、正しい顔をしちゃっていないか。


「優越感」、それは、とても醜い。
「好き嫌い」は自由なことだけど、
いばったり自覚しなかったりはまた別のもんだい。


こんな話があります。
田中角栄氏が、とある祝賀会で
小さな女の子に思いがけず花束を贈ってもらい、
その子に喜びと感謝を示したくて、
いつも懐にしのばせている一万円をその子にさっとプレゼントした。

ふだんからそうやって「すぐにその場で、現金で感謝を示す」ということを
習慣(信条)としてやってきたから、
小さな子ども相手にもそれをしちゃった、ということで、
ネガティブに語られがちなエピソードなのですが、
私はこの話の角栄さんはけっこう好きなのです。

単純に「お金でしか感謝を示す方法がわからないかわいそうなひと」っていう感想で
それ以上想像せずに打ち切る見方は好きじゃない。

たぶん、例えば彼が社長だったら、
社員たちがサービス残業とかしなくてもいいように
心配りや予定編成をしっかりするひと。

「お金で働きに応える」ってそういうことだと思う。
で、これまた例えばだけど、
残業の現場に夜食の差し入れをくれる部長は
「わかりやすくやさしい」けど、
そういう状況をつくらないように算段する社長も
「やさしい」はずじゃないか。
(そして、残業を未然に防げなかった部長は「やさしい」のではなく
「罪滅ぼし」をしているだけなのかもしれない)
でも多くの人は、「社長はさー、現場わかってなくてさー」とか言ってない?
……と、そんなことでした。


なんか、「てづくり=あたたかみ&善、お金で解決すること=下品」みたいな
単純な単一評価が世間に根強くある気がして、
それは違うだろうってひとこと言いたくなったのでした。

心のこもっていない「てづくり」だってあるし、
その人にとって一番いいものを考えた結果の「お金の贈り物」だってあるもの。
ボーナスやお見舞金、御祝儀ってとてもあたたかいものだと思うのです。

なんというか、「心のこもったお金」が、
もっと、ちゃんと評価される世界になるといいな。
いや、「何に心がこもっているか、見抜くちからをみんなが身につける」と言うべきか。
emix | 雑記 | 19:08 | comments(0) | - | - | - |

現時点でつかんだ(たぶん)、世界の真理。

なにやら、大仰なタイトルになりましたが、
今までの命の時間の中で、
これだけは「正しい」といえる、不変の真理だな、と
ほぼ確信したことがあるので
思い出したいま、書き留めておきます。


・質量保存の法則は、正しい
(物質も心も、使えば減るし、見えなくなっても存在はなくならない)

・先入れ先出しは、正しい
(小賢しい工夫なんか、太刀打ちできない正道)

・等身大であることをめざすのは、正しい
(背伸びもへりくだりも、よくない)


まだ見つかりそうな気はしますが、
とりあえず、なにごともこの三つを守っていたら
大きなわざわいも、大きな失敗も、深い後悔も
避けられそうな気がしています。

モノの世界も、心の世界も、真理はたぶん同じ。
(最近、なんか理系っぽい。)


いつまでも解けない私の疑問であり悩みである、
「義務のよろこびかた」が、そのうち、分かるかもしれない。

emix | 雑記 | 10:30 | comments(0) | - | - | - |

国語で解く、計算式。

……という本があってもいいな、と思いました。

算数がにがてだった私が、最近になってぼちぼち、
じっくり自分の中で別物に置き換えながら考えたところでは
計算式の意味が納得できるようになったので。


そのなかのいくつかは、こんな感じ。
(ハッキリ言って、バカな話を書いています。算数が苦手だった人って
こういうレベルでもんもんとしているのか、ということをお察しください)


●マイナス×マイナスがプラスになる計算
「プラスのついた数字」「マイナスのついた数字」を
「足す数」「引く数」ではなく
座標における移動の方向と考えて、
プラスつき数字 →「起点から右に移動する」
マイナスつき数字→「起点から左に移動する」
と考えると、変じゃなくなる。
(「なんで減るん?」というハテナがなくなった)

●1+1は2になるが、1×1は1になる計算
足し算における「1」はそれぞれ別の「1」になるけど
(ふたつの1は、それぞれA1、B1)
かけ算における「1」は、同じ1。
(上の例では、ふたつともA1)

別のものは足したら増えるけど、
同じものを掛けても変わらない。


……結局、私がひっかかっているのは
つねに「乗除」のほうなんですよねー。
乗除は、目の前にある事実を示すのではなくて、
理論上のものを示すもの。
「2×3」は、「2+2+2」の記号化であり、
本来、2×3というものは、実在しない。


そもそも、
「1」たす「1」という考えかたが
間違いのもとであって、
「+1」&「+1」からはじめたら
あとあと、困らなかったかも知れない。
(少なくとも、私は)

座標のはなしは、たしか中学校くらいで出てきたと思うんだけど、
ほんとうは、小学校の一番最初にやってもよかったの、かも、ね。

 机の上にりんご1個がありました。その隣にみかん1つを置きました。
 さて、机の上には果物はいくつあるでしょう?

……という問題に出てくる「1」+「1」と、
単に計算として出てくる「1+1」の「1」は別物だということを
区別しないまま、ぐちゃぐちゃぐちゃーっといろんな「計算式」に
なだれこんでいった感があります。

さっきの問題を出したあと、

 机の上にスイカ1個がありました。その隣にさくらんぼ1つを置きました。
 さて、机の上には果物はいくつあるでしょう?

という問題があったら、どうだろう?
だって、スイカは超でかいし、さくらんぼは超ちっちゃい。
それを単に1+1=2 としてよかったのか?
という疑問が浮かぶんじゃないだろうか。

で、大きさにかかわらず、それでも「果物は2個」という事実は変わらず、
そうか、1+1は、そういうことか、と理解できたと思うのです。

これは個数を数えるときの計算なんだな、とスッキリ納得。


 机の上に100gのりんご1個がありました。その隣に50gのみかん1つを置きました。
 さて、机の上には果物はいくつあるでしょう?

という問題を出されても、翻弄されない。
「果物はいくつ」と個数を聞かれているから。


そこで、1というものについて理解したうえで、
その1を別の形で使う、座標の話に進める土壌ができると思うのです。
というステップを経て、

1 は、1個 を表す場合(リアル)と、
1 という不変の質量単位を表す場合(計算上、理論上)があるのだということを、
理解できたら、よかった。

……と、いまさらに、振り返るのでした。



なんかいっぱい書けちゃった。
ああ、私は、ほんとうは算数、好きだったのかもしれないなあ。

emix | 雑記 | 22:11 | comments(3) | - | - | - |

カラオケ撲滅委員会(隠喩)。

とくていひみつほごほうの施行予定日までに
「じぶん」ができることを考えています。

あえてはじめは、力を合わせたり
足並みをそろえようとしないつもり。

---

学生時代、カラオケの好きじゃない友人がひとりで
「カラオケ撲滅委員会」を立ち上げてました。

活動内容はただひとつだけ、
「『カラオケいくひとー!』って声があがったときに
手を挙げない」のみ。

当時はただ愉快なはなしだと笑ってましたが、
今になって、重要な真実をあぶりだしていたのだと
気づきました(S井くんあなたはサスガです)。

迎合をなくすためには「自分の土台」が不可欠だから、
そこをひとりで確かめてから、やんなきゃならない。

そうでないと「新たな迎合」に乗り換えるだけになる。

「乗り換えて欲しい人」は、受け皿の場所と、
賛同することで自分で決断し選び取ったのだと思い込みやすい形で
理論を用意して誘ってきてくれるもの。

自分がやるべきもの、自分が決めるべきものさえも
「替わりに全部やってあげるよ、心配しなくていいよ」と言ってくれるひとは、
親切なのではなく、支配したい人、なのでもあると思います。







emix | 雑記 | 12:45 | comments(0) | - | - | - |

頭でなく、体で。

日本のあちこちを旅したり住んだりしてから、
やっぱり育ったとこがなじむなと思う。

ともだちの住まいを訪ねて地元のあちこちに出かけてみて、
やっぱりじぶんちの身近な環境がなじむなと思う。

親の出身地や、自分の行動パターンから憶測するルーツとか考えたら
明らかに今いる「ここ」は、
ずっと代々住んできた土地でも環境でもないのだけれど、
それでも私の体じたいは「私はこの場所で大きくなったのだ」と
肯定するスタンスでいるのだなと感じる。

心はいろいろ考えたり解釈したり判断を加えたりと、
忙しくかつ我儘なのだけれど、体はとてもシンプルで正直。
「反応」がことばの代わりで、全てを表現している。

もっと体の言うことに耳を傾けないとな、と思ったのでした。


何らかの選択肢のなかでこの土地を選び、
そしてここで生きようと決めた先祖が実在し、
そしてその遺伝子は間違いなく私の一部を構成している。

長い目で「自分」を見ようとし過ぎて、
「直近の先祖」が
とーちゃんとかーちゃんであることを
うっかり失念するのです。馬鹿だなぁ。
emix | 雑記 | 09:02 | comments(0) | - | - | - |

あいまいな日本の私。

折に触れて思うのだけれど、
日本ほど「宗教」がネガティブにとらえられる国はないんじゃないだろうか。
新興宗教への視線とか、脊髄反射的に「怪しい!」と向けられている気がする。

と同時に、日本ほど宗教に対して寛容な国もないんじゃないかとも思う。
キリスト教行事も、仏教行事も、神道行事も、民間信仰行事も、なんだか混在している。

これらのことは、矛盾してるのではなくて、
どちらをもしっかりと貫く、ひとつの信念に基づいてのものである気がする。

それは、
「極端や決めつけはよくない。中庸や多様性をこそ重んじよう」
というもの。


「Noと言えない日本人」
「あいまいな表現が多い日本語」
日本の特性は、そんな風に悪い点としてあげられがちだけれども、
これらの根底には、同じく、これがあると思う。

「極端や決めつけはよくない。中庸や多様性をこそ重んじよう」
これは、グローバルな場で、胸を張って宣言していいことだと思う。


そして、この「日本らしさ」は、
武士道や、大和魂と言われるものとは、
一線を画するものである気がする。

個人的には、この土地、自然環境に息づいてきた、
本来の、土着のところの日本の思想なのではないか、と
考えたりしていますが、まあ、願望かもねとも思うので
あんまり大きな声では言いません。

でも、この山があり海もあり、緑豊富で水も豊富、
そして寒暖の差があり四季の変化があり、
基本的には温暖でいろいろな生き物が暮らすという
雑多かつ豊かな環境のこの風土にあって、
この場所に合っているなあ、となじむ考えなのです。

少なくとも、他の風土環境にある国のひとに
「NG」って言われる性格のものでは、ないと思うのです。

そういう特性のマイナス面を拾い出して
世界標準(これもよく分からないものですが)に合わないから
直さなければ、と、自罰してしまう、
そんなことが「グローバル化」だなんて、おかしいでしょう。

マイナス面は、消せばいいものではなく、
それとバランスをとって成り立っているプラス面にも
影響してしまうことだと思います。


(タイトルは、既存の本のタイトルからとりましたが、まだ読んだことないんですよね。
似たようなことが書いてあるとうれしいな。また読んでみよう)

emix | 雑記 | 08:56 | comments(0) | - | - | - |

ゲームのおもしろさの話から、戦争との絶対的な違いについて。

ときどきブログにも書いているけれど、
ゲーム(Video Game)っておもしろいものだ、と
機会があるごとに、ずっと言い続けておりまして、
そのへんのおもしろさについて
わかりやすく言語化しているサイトさんがあったので
ぺたり、と貼り付けておきます。

5人タクティクスオウガ
http://homepage1.nifty.com/%7Eyu/t_ogre/

(旧環境のOSXではチルダが出ませんね……)


うんうん、とうなずいたことを抜き出しメモ。

・ハードモードがおもしろいゲームはいいゲームだ
・制限プレイは、ゲームバランスを自分でとる楽しみかた
・子どものころ、学校帰りに「影だけ通って歩く」「地面を踏まないで歩く」などの「縛り」の楽しさが、
 制限プレイのおもしろさに通ずる

当たり前なんだけれども、いわゆるテレビ画面で遊ぶゲームは、
遊び全般の「ゲーム」のひとつ。スポーツもそのひとつ。
勉強だって、読書だって、計算だって、仕事だって、人間関係だって、
いっそ大風呂敷を広げてしまえば、人生だって、ゲームともいえる。


今思う、ゲームの「楽しさ」は、箇条書きにしてみたら、こんな感じ。
きっとまだまだあるのだけど。

・限られた条件の中で、楽しみや喜びをみつける
・そこにカタルシスをクリエイトする
・それは個人的な喜びでありつつ、かつ、
 程度をそれぞれに置き換えることで、共有も可能なもの
・だから楽しみ方はそれぞれ
・プレイヤーも楽しい、ギャラリーも楽しい

そして、ゲームのことについて考えると、
擬似戦争をとりあえることが多いから、どうしても、戦争について考えてしまう。
だけど、そういっちゃえば、「スポーツ」だって、擬似喧嘩だ。
一対一、多対多の喧嘩どころか、一対多のものもあり、擬似いじめでもある。

だけど、違う。あくまで「擬似」の境界を超えることはない。

この定義に通じるけれど、戦争については、断じてゲームとは言いません。
もしあれもそのひとつだと言うのだとすれば、
「本当に一人だけしか楽しめないチートのゲーム」かもしれない。
そしてそのゲームは、最早ゲームではなく、
うまく表現できないけど、別の何か。
ここのわかりやすい説明は、今後の課題。


なんというか、賛否両論の問題だと思うのですが、
名乗りを上げてから戦う、大将が倒されたら兵を引く、
そんな、ある時代に一時期あった、本当の「戦争」には、

「決着をつけるために命をかけるべき時は厳然としてある。
だが、本当はそんなことをしたくはない」

という、苦渋の意志があるような気が、少ししています。

+++

表面的には暫定平和の現在において、しばしば耳にする、
『「殺」が悪だ、「死」は何をおいても避けなければならない』、
そういう安易な話にうなずけない自分の納得どころは、
ひとつ、ここにある気がします。たぶん。
emix | 雑記 | 08:36 | comments(1) | - | - | - |

「平家の落人伝説」から想像を広げる。

土地についての調べものをしていると、
自分の住む県内でも、来たから南までのほかの土地でも、
山間部や入り組んだ海岸など交通の便の悪いところに
「平家の落人伝説」がかなりの確率であったりする。

単純に、「これって、つまり敗走してなお、
本州のあっちこっちに逃げる程の人数がいたってことで、
平家ってホントにすごい繁栄してたんだな」と思ってたのだけど、
よく考えたら杣でも農民でもない、武家である彼らが
何もない、自然ばかりの山や谷や海岸で
自分たち自身を体一つで養う術は持っていないだろうと思われ、
そういう「不便な土地」に元々住んでいた、また
中央との繋がりが濃厚ではない人々が
彼らを受け入れたことが、この背景にあるのだろうなと思いました。
その人々とは、サンカであったり、縄文人たち、先住民族の裔であったり。

想像をたくましくすれば、彼らもまた古い過去に追いやられた経験がある一族で、
それゆえに「逃げてきた人々」を、受け入れる土壌があったのかもしれない。


そして、同時に「落人たちがもたらした文化」が
伝説とセットになっていることも多くって、
知識階級であった彼らは、
「受け入れてもらうかわりに、都暮らしで知り得た知識をその土地の人々に提供した」
のだろうという気がします。
取引なのか、感謝なのか、暮らしの中での必然なのは分かりませんが。

想像はどんどんふくらみます。
emix | 雑記 | 11:16 | comments(0) | - | - | - |

にげるまえに。

世界には、
ただしいやりかた、というのはなくて、
「わたしが納得するやりかた」
しかない。

だから、何らかのやりかたを選んだならば、
自分がそれを選んだことを
納得したということだ。

……ということを、何かの拍子に思ったのですが、
その「拍子」が何だったのかを忘れてしまいました。

だいじなことは、およそ忘れ去ったものの中に。
emix | 雑記 | 12:01 | comments(0) | - | - | - |
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